

郡区町村編制法は、明治11年(1878年)7月22日に太政官布告第17号として制定された日本の地方制度に関する基本法律です 。この法律は、いわゆる「三新法」の中核を成すもので、府県会規則、地方税規則とともに明治政府初の統一的地方制度を確立しました 。
参考)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E5%8C%BA%E7%94%BA%E6%9D%91%E7%B7%A8%E5%88%B6%E6%B3%95
従前の大区小区制が地方の実情に合わず不評であったため見直しが必要となったことと、自由民権運動の高まりにより地方政治への住民の参加を認める必要性が出てきたことが制定の背景にありました 。特に大区小区制があまりにも中央集権的・官治的であったために多くの紛擾を生じて行き詰まったことが大きな要因となりました 。
参考)https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%96%B0%E6%B3%95-513882
この法律により、従来の大区小区制を廃して、郡区町村を置くことが定められました(第1条)。地方行政の構造は「府県―郡区―町村」という三層制に再編され、これが明治時代の地方統治機構の基本形となりました 。
参考)https://adeac.jp/konan-lib/text-list/d100010/ht050050
郡の設置においては、旧来の郡を基本としつつ、広すぎるものは分割した上で1人の郡長を置きました(第5条前段)。一方、三府・五港・人口密集地・交通の要所には郡から分けて区を置き、広い人口密集地には複数の区を置くことが規定されました(第4条)。
戸長制度は郡区町村編制法の最も重要な特徴の一つです。町と村には戸長を置き、数町村に1人の戸長を置くこともできるとされました(第6条)。注目すべきは、戸長が民選制とされたことで、これにより地方に一定の自治が認められました 。
戸長の選挙・被選挙資格は厳格に定められ、100円以上の不動産を所有する20歳以上の男子に与えられました 。この制度により、旧来の郡町村制に戻すことで人民の便宜を図りつつ、戸長を民選とすることで地方自治の基礎が築かれました 。
参考)https://archives.pref.osaka.lg.jp/search/information.do?method=initPageamp;id=55
郡区町村編制法の施行は各府県で段階的に実施されました。最も早い施行は岡山県の明治11年9月29日で、最も遅い施行は堺県の明治13年4月15日でした 。東京府は明治11年11月2日、大阪府は明治12年2月10日に施行され、各地域の実情に応じて順次導入されました 。
千葉県では明治11年11月に県下を21郡に編成し、町村を管轄させるなど、各県では具体的な実施体制が整備されました 。この法律により、江戸時代から当時まで地域の名称にしかすぎなかった郡が、実際の行政機関として機能するようになりました 。
参考)https://adeac.jp/funabashi-digital-museum/text-list/d100080/ht001310
郡区町村編制法は、現代の不動産取引における地方自治制度の歴史的基盤として重要な意義を持ちます。現在の宅地建物取引業法第35条に規定される重要事項説明制度の根幹である地方自治体の権限構造は、この法律によって確立された枠組みの延長線上にあります 。
参考)https://e-takken.tv/r06-37/
明治84年5月の大改正により連合戸長役場制、戸長官選制などの変更を経て 、最終的に明治21年(1888年)の市制・町村制および明治23年(1890年)の府県制・郡制により、明治33年(1900年)4月1日までに順次失効しました 。しかし、この法律で確立された地方自治の基本理念は、現代の地方自治制度にも引き継がれており、不動産取引における行政機関との関係を理解する上で重要な歴史的背景となっています。
参考)https://kotobank.jp/word/%E9%83%A1%E5%8C%BA%E7%94%BA%E6%9D%91%E7%B7%A8%E5%88%B6%E6%B3%95-832062