
履行に着手について、最高裁判所は明確な基準を示しています。最高裁昭和40年11月24日判決によれば、履行に着手とは「債務の内容たる給付の実行に着手すること、すなわち客観的に外部から認識できるような形で履行行為の一部をなし、または履行の提供をするために欠くことのできない前提行為をした場合」と定義されています。
この定義において重要なのは、客観的に外部から見て、給付の実行や履行の一部が提供されている状態であることです。単なる準備行為では履行の着手とは認められません。
さらに現在は、最高裁平成3年1月6日判決において「履行の着手にあたるか否かは、当該行為の態様、債務の内容、履行期が定められた趣旨・目的などの事情を総合的に勘案して決すべきである」との総合考慮説が採用されています。
売主側の履行着手例
売主による履行の着手として認められた具体例は以下の通りです:
東京高裁平成25年8月7日判決では、建売住宅の売買において履行期16日前に売主が買主の委託を受けて建物の買主を所有者とする表題登記を行ったことが履行の着手に当たるとされました。
また、東京地裁平成21年9月25日判決では、売主の立退きが前提となる土地建物の売買において、履行期20日前に売主が買主の測量に立ち会い、履行期12日前に転居先の改装工事に着手したことなどにより履行の着手が認められています。
買主側の履行着手例
買主による履行の着手として認められた事例には以下があります:
奈良地裁葛城支判昭和48年4月16日では、農地法5条の許可等を条件とする履行期の定めのない売買契約において、買主が契約から2年経過後に残代金を用意して再三にわたり契約条件を成就させて売買土地を引き渡すよう売主に督促したことが履行の着手として認められました。
一方で、履行の着手が否定された事例も存在します:
否定された事例
重要なのは、履行の着手の判断が契約内容や取引の経過を総合的に考慮して決定されることです。同じような行為であっても、契約の性質や履行期との関係、当該行為の重要性によって結論が異なる場合があります。
不動産実務において履行の着手を判断する際の注意点をまとめると以下のようになります。
判断の複雑性
履行の着手の判断は非常に複雑で、一概に「この行為があれば履行の着手」と断定することはできません。各事案の具体的な事情を総合的に勘案する必要があります。
時期の重要性
履行期との関係も重要な判断要素となります。履行期に近い時期の行為ほど履行の着手として認定される可能性が高くなります。
外部認識可能性
行為が客観的に外部から認識できるものでなければなりません。内部的な準備や意思表示だけでは不十分です。
契約内容との関連性
当該行為が契約の履行にとって必要不可欠であり、かつ重要な意味を持つかどうかが判断されます。
履行に着手の概念は、民法第557条第1項に規定される手付解除権と密接に関連しています。解約手付が交付された場合、当事者は相手方が履行に着手するまでは手付の放棄(買主)または手付の倍額償還(売主)により契約を解除することができます。
手付解除の仕組み
しかし、相手方が履行に着手した時点で、このような手付による解除権は消滅します。これは契約の安定性と取引の安全を図るためです。
実務上の課題
最高裁平成3年判決以降、不動産業者が安易に「履行に着手している」と断定できない状況となりました。従来は外形的に認識される残代金準備などが手付解除を封じる有効な手段として機能していましたが、現在は総合考慮説により一概に判断できなくなっています。
この変化により、履行期が近接している場合の判断基準や、口頭による履行提供と現実の提供の解釈など、新たな課題が浮き彫りとなっています。そのため、実務においては個別の事案ごとに慎重な検討が必要となっており、専門的な法的判断を要する場面が増加しています。
履行に着手の認定は、不動産取引の成否を左右する重要な要素であり、売主・買主双方にとって契約履行の意思を明確に示す重要なプロセスとなっています。取引当事者は履行の着手がいつから開始されるのか、どの行動が履行に該当するのかを明確に認識し、契約内容に対する理解を共有することで、将来的なトラブルを未然に防ぐことが可能となります。