
相殺権は、当事者双方が同種の債権を有する場合に、意思表示によって両債権を対等額で消滅させる権利です。この制度は、実際に金銭の授受を行わずに債権債務関係を清算できる実用的な仕組みとして、宅建試験でも重要な論点となっています。
相殺における重要な概念として、「自働債権」と「受働債権」があります。自働債権は相殺を主張する者が持つ債権、受働債権は相殺される側の債権を指します。例えば、AがBに対して100万円の貸金債権を持ち、同時にBもAに対して80万円の売買代金債権を持っている場合、Aが相殺を主張するとAの債権が自働債権、Bの債権が受働債権となります。
相殺と単純な差し引きの違いは、結果として残額があるかどうかです。相殺は「帳消し」や「チャラ」という意味で、可能な限り債権を消滅させることを目的とします。上記の例では、Aの自働債権100万円からBの受働債権80万円を差し引き、Aに20万円の債権が残ることになります。
民法第505条に規定される相殺制度は、商法第529条でも定められており、商取引においても広く活用されています。宅建業務において、売買代金の決済や仲介手数料の処理など、実務でも頻繁に遭遇する制度であるため、正確な理解が不可欠です。
相殺が成立するためには、以下の要件を全て満たす必要があります(相殺適状)。
特に重要なのは、受働債権(相殺される側の債権)については弁済期が到来していなくても相殺が可能という点です。これは、相殺を主張する者が自己の債務について期限の利益を放棄できるためです。期限の利益の放棄とは、「まだ返済期限が来ていなくても、今すぐ返済を要求されても構わない」という意思表示です。
また、自働債権について時効が完成した場合でも、時効完成前に相殺適状に達していれば相殺は可能です。これは、時効完成前の段階で既に相殺による債権消滅の条件が整っていたと考えられるためです。
相殺の方法については、当事者の一方から相手方に対する意思表示のみで効力が生じ、相手方の承諾は不要です。ただし、この意思表示には条件や期限を付けることはできません。「友人に貸したお金を返してもらったら相殺する」といった条件付きや、「10日後に相殺する」といった期限付きの意思表示は無効となります。
不法行為による損害賠償請求権を受働債権とする相殺は、原則として禁止されています。この制度は被害者保護の観点から設けられており、2020年の民法改正でより詳細な規定となりました。
改正民法では、不法行為債権の相殺禁止について以下のように区分されています。
生命身体の侵害以外の場合。
生命身体の侵害の場合。
具体例として、AがBに金銭を貸し付けている状況で、Aが故意にBに怪我を負わせた場合を考えてみましょう。Bは治療費をAに請求できますが、Aはこの治療費債務と自己の貸金債権を相殺することはできません。これは、暴力や故意の加害行為を助長することを防ぐためです。
ただし、被害者側から加害者に対して相殺を主張することは可能です。つまり、不法行為債権を自働債権とする相殺は禁止されていません。この区別は、被害者の救済を最優先とする制度設計によるものです。
不法行為債権の相殺禁止規定は、宅建実務においても重要な意味を持ちます。例えば、建物の瑕疵による損害賠償請求と売買代金債権の相殺を検討する際には、瑕疵の原因が故意か過失か、生命身体に関わるものかを慎重に判断する必要があります。
相殺禁止特約は、当事者が相殺を禁止または制限する合意のことです。2020年の民法改正により、この特約の第三者に対する効力について明確な規定が設けられました。
改正前は「相殺禁止特約は善意の第三者に対抗できない」とされていましたが、「善意ではない第三者」の範囲が不明確でした。改正民法では、相殺禁止特約は以下の第三者に対して対抗可能となっています。
重要なのは、債務者側が第三者の悪意・重過失について立証責任を負うという点です。つまり、相殺禁止特約を主張する側が、第三者が特約を知っていた、または知らなかったことに重大な過失があったことを証明しなければなりません。
この規定は、債権譲渡や債権者代位権の行使など、第三者が債権関係に介入する場面で重要となります。宅建実務では、不動産売買における手付金の相殺禁止特約や、賃貸借契約における敷金の相殺禁止特約などで問題となることがあります。
特約の効力を検討する際は、その第三者が特約の存在について善意・無重過失であるかを慎重に判断する必要があります。契約書への明記や登記事項への記載など、第三者が特約を知り得る状況を整備することが実務上重要です。
債権譲渡と相殺の関係は、宅建実務で頻繁に遭遇する複雑な問題です。債権が第三者に譲渡された場合の相殺の可否は、債務者が反対債権を取得した時期によって決まります。
譲渡通知前に反対債権を取得した場合。
債務者は譲受人に対して相殺を主張できます。これは、債務者が譲渡の事実を知らない段階で既に相殺への合理的期待を抱いていたためです。重要なのは、反対債権の弁済期が譲渡通知後に到来する場合でも相殺可能という点です。
譲渡通知後に反対債権を取得した場合。
債務者は譲受人に対して相殺を主張できません。これは、既に債権譲渡を知った後での反対債権取得であり、相殺への合理的期待が認められないためです。
この制度により生じる実務上の注意点として、以下が挙げられます。
宅建業務では、売買代金債権の譲渡や賃料債権の譲渡などで問題となることがあります。特に、不動産の流動化や証券化取引において、既存の債権債務関係と新たな債権譲渡の調整が重要な論点となります。
債権譲渡における相殺の制限は、債務者保護と譲受人保護のバランスを図った制度です。実務では、契約時点で将来の債権譲渡可能性を検討し、相殺に関する取り決めを明確にしておくことが重要です。また、債権譲渡通知を受けた場合は、既存の反対債権の有無と発生時期を速やかに確認し、相殺の可否を適切に判断する必要があります。